長崎かぜだより「文化元年長崎梅ヶ崎事情 2」 

仙台藩の廻船「若宮丸」の水主(かこ)たち15名は、太平洋上で船を失って極北の大地に馬橇(ばそり)上の客となり、ヤクーツクから氷結したバイカル湖面を滑り抜け、ロシア第3の都市イルクーツクに滞在する。津太夫ら漂流民のこの先の運命が、このイルクーツクで二つの方向に分かれて行くのを、彼らは知る由もない。

―――酷寒道中15人のうち5人は、イルクーツクに着くまでに早くも中途落伍。栄養失調で倒れたり、凍傷がたたって手や足を切断したりで、集団行動離脱を余儀なくされる。異大陸に迷い込んで、超難解な言葉、まったく異質な環境ながらも、その土地に解け込み、土地の人々の生活の中心にあるロシア正教会(ローマ帝国が分裂してビザンチン帝国に受け継がれたキリスト教「東方教会」の最大勢力)の集会に通い始める者も出てくる。

石巻生れの若い善六(ぜんろく)などは、“最早祖国には戻れない”と観念して、自らの望郷心を打ち消すかのように他力救済的にキリスト教信仰を抱くに至り、正教会で洗礼を受ける(洗礼名バイトロ・ステパノイッチ・キセロフ、カトリック教徒ではないから彼を[切支丹(キリシタン)]或いは「耶蘇(ヤソ)」とは呼ばず)。善六を慕う石巻の若手船乗り5名も善六に続く。―――イルクーツクは“シベリアのローマ”と称され、キリストを信仰するスラブ民族の国家宗教「ロシア正教」の、その重要な巡礼地であった。

善六たち6名の意外な行動を呆気に取られて眺めていたのは、他ならぬ津太夫たち4名である。異境での行く末を憂いこそすれ、だからといって宗旨替えまでするなど思いもよらない実直な彼らは、強(したた)かに生来の腕を活かせる居場所を見つける―――大工仕事と漁網作りで地元に貢献する津太夫、賄いで一同の食生活を仕切る儀兵衛、魚釣り(バイカル湖)と地元産の麦でどぶろく造りに励む佐平、そして、身についたロシア語力が買われて現地役人の秘書兼通訳となった最年少の太十郎……。折しも、積極外交路線を貫いて来た女帝エカテリーナが死去(1796年11月)、後継ぎの長男パーベル1世はまるで外交無策だったりで、漂流民のイルクーツク生活も予定より遥かに長くなり、通算6年間にも及んだ。

帝都ペテルブルグから伝令が届くのは1803年3月―――「日本からの客人ご一同、直ちに皇宮に参上し、皇帝に謁見されたし」。一同10名は、都入りの直前モスクワに立ち寄り、“現地特別誂え”の紋付き袴に着替える。アリューシャン・ナアツカ島漂着から実に10年、石巻若宮丸の船乗りは、ロシアの都ペテルブルグに入る、1803(享和3)年6月9日のことである。一同が拝謁する皇帝はアレキサンドル1世。息子(パーベル)に失敗したエカテリーナ女帝が、じきじきに帝王学を授けた自慢の孫だ。

祖母の積極外交路線を受け継ぐアレキサンドル皇帝は、謁見の席でただ一言「あなたがたは本当に祖国に帰りたいか?」と尋ねる。通訳を務める太十郎は、「少なくとも津太夫、儀兵衛、左平、某(それがし)の4名は、命を懸けても戻りとうございます」と答える。皇帝は、その4名を手招きして呼び寄せ、一人一人肩に手を置いて精一杯の親しみを表わす。予想外の皇帝の振る舞いに、津太夫はじめ4名は、わが身が露日国交樹立交渉の恰好な「人質」となっていることに、今更気づくのである。

“人質面談”を無事終えた皇帝は、空前絶後・前人未到の大西洋・太平洋連続縦断大航海の大役を、北方産毛皮交易を牛耳る帝国御用商人にして国策企業「露米会社」総裁ニコライ・レザノフに託す。船はロシア海軍の軍用帆船を使用。その詳細は、船名「ナジェジダ」 全長109.4m 3本マスト――高さ各50m 汎布各5枚全15枚装着 総トン数2,927t 喫水(きっすい)=水面から船底までの高さ7m(筆者注:日本最初の蒸気帆船[観光丸]の全長はこの1/2 トン数は1/8 喫水は1/3 ナジェジダ号の巨大さはそのレプリカ船が数年毎にやって来る「長崎帆船まつり」で体感できる)。艦長は海軍士官クルーゼンシュテルン。航海士は全員海軍海兵隊員、乗組員は総勢130名、そして、船の名「ナジェジダ」は、ロシア語で「希望」を意味する。

ペテルブルグから北西に至近距離で、バルト海に通ずる入り組んだフィンランド湾に面した軍港グロンシュタットKronstadt港。数名足らずの日本からの漂着民を祖国に送り届けるために、軍艦「ナジェジダ」はこの港から、ほぼ地球の裏側の長崎に向かって出帆する。―――奇しくも、100年後の日露戦争を戦うあの「バルチック艦隊」の大船団40隻が、帝政ロシア植民地東端の「旅順」港に向けて出撃(1904年)したのも、この港であった。

 

ところで、ロシア・シベリアから世界デビューした宝石がある。ベリリウムとアルミニウム酸化鉱物クリソベリルの一変種で、五大宝石の一つにも数えられる「アレキサンドライト」だ。

シベリア横断中の漂流民たちも渡ったに違いないウラル山系「タコワヤ河」流域で、1831年偶然見つかった。試しに磨いてみたら大層美しく、しかも陽光下で緑色、夜のランプの下ではパープリッシュレッド(赤紫)に色が変わる。

ハニーカラー(白濁した蜂蜜色)が標準的なクリソベリル結晶に、奇跡的確率で混入したクロム、鉄そしてヴァナジウム元素の為せる「透明な緑と赤の神秘」に驚嘆した当局(王立科学アカデミー)の専門家は、「これぞあのモスクワ焦土作戦で無敵ナポレオン軍を敗走させた皇帝アレキサンドル1世陛下の生れ変り(皇帝は戦場から凱旋直後に急死)」とばかりにこの石を「アレキサンドライト」と国内外に宣言したという。

実は、宝石界の通説では、この辺の事情が少々食い違う。アレキサンドライトの由来源はアレクサンドル1世ではなく、その長男で皇太子のアレクサンドルだというのだ。石の発見日が皇太子元服日であった、という説は、1世皇帝の英雄伝説を妬む宮廷内守旧派の陰謀だったらしい。尚、帝政ロシア陸軍の制服に施されたストライプの緑と赤もこの宝石から来ている、という説もあるが、これはホンのこじつけのご愛敬であろう。

それにしても、シベリアでこの宝石の発見が僅か30年早かったら、皇帝アレキサンドル1世は、東洋人が見たことのない最高に美しい贈り物を長崎に届けられただろうに・・・・・。 

<つづく> ©松原まこと

 

◎著者プロフィール:松原まこと。長崎在住。元柏書店松原 社長。国内では希有な存在として宝飾専門の出版、販売をおこなっていた。「とうきょうジュエラーズ」、「美しい日本のオリジナルジュエリー」、「世界の天然無処理宝石図鑑」、「世界のレアストーン図鑑」など多数のジュエリー専門書籍の出版に尽力した。GIA JAPANのメールマガジンで「長崎かぜだより」を連載していた。

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