長崎かぜだより「文化元年長崎梅ヶ崎事情 4」

帝政ロシアの都ペテルブルグを流れるネワ河を小舟で下り、まもなくバルト海に臨むグロンシュタット港へ。フィンランドとの国境地帯で帝政ロシア有数の軍港グロンシュタットから一路西へ、順風満帆のバルト海航海もはや40日。大型帆船ナジェジダ号の視界前方にはデンマーク領ボーンホルム島の島影が入って来る。船乗りたちから「バルト海の宝石」と呼ばれるこの島はそれに似合わない大きな島で、デンマーク・チーズの代名詞「ブルーチーズ」の主産地。島ぐるみ伝統的手工芸「ボビン・レース」が盛んで、島内地下からは陶土として良質な白磁鉱が採れるという(これについては後述)。船員の一人が「この東風が止まらない限りこの船は明後日までにコペンハーゲン港に入港します」と津太夫らに告げに来た。そして1803年7月26日、ナジェジダは滑り込むようにコペンハーゲンの港に入る。港の背後には、夏風をいっぱいに受けて悠然と廻る数基の風車が、津太夫たちの入港を歓迎した。

同港停泊中、使節団長レザノフは善六と太十郎を船から街に連れ出し、創業して間もない「王立デンマーク磁器製陶所」すなわちロイヤル・コペンハーゲン磁器工房(クリスチャン7世・ジュリアナ王太后により1773年創業)に案内している。王室外交の一環で皇帝アレキサンドルの名代としての表敬訪問である。東洋からの珍客同伴とあって、一行は特別に「絵付け」工房に通される。素焼きした皿や鉢に鮮やかなブルーのコバルトで絵付けを施す職人は、何と全員女性であったのも二人には衝撃であった。繊細な唐草(からくさ)風オーナメントや華やかな花モチーフのレース模様などを面に描き入れる作業を熱心に覗き込む善六と太十郎。すると絵付け師頭の女性が二人にそっとロシア語で耳打ちする―――“私たちの師匠は、あなたがたの国から来たイマリ(伊万里焼)のソメツケ(染付)です”と聞かされてまた驚いた。参考までに、磁器ロイヤル・コペンハーゲンの原料は、善六らが2日前船上から眺めたボーンホルム島に産する石英系粘土鉱物「カオリナイト」という陶土で、奇しくもこれは伊万里焼のふるさと肥前有田に産する「白磁鉱」と同じものだ。意匠の世界の妙技を十分堪能して「王立工房」を辞する善六と太十郎に、彼女は自身のサインとR.C.マーク入りの白磁小鉢を贈った。片言のデンマーク語で「有難う」と返した善六と太十郎は、恐らくゲルマン系ヨーロッパ女性と対話した最初の日本人となろう。

―――ところで、フランス革命直後のヨーロッパ大陸で、いわゆるフランス流合理主義思想(=理性を重んずる啓蒙主義的文化・作法)に君主・市民ぐるみ席巻(せっけん)された国の一つデンマークから、逆にフランスに流入したものが一つある。貴金属装飾技法「カンティーユCannetille」だ。白磁にコバルト・ブルー模様の「ロイヤル・コペンハーゲン」の食器は、フランスの新興ブルジョアジー層の食卓でも“不可欠なコペンハーゲン・ブルー”と絶賛され、特徴的な唐草のレース模様が女性たちの装身具まで及んだもので、刺繍糸を刺すように極細(ごくぼそ)の金線を蝋付け(ろうづけ)する極めて精緻な超絶貴金属技法である。少量の地金量でフラットな面をより装飾的に表現する技法を生んだ背景には、産業革命勃興期の「金価格」高騰がある。新大陸(アメリカ)から金が大量供給(ゴールドラッシュ)されるのはこの直後だ。―――尚、フランス語CannetilleのCanneとは、フランス革命軍軍服の胸に付けられた「金モール」(金糸・銀糸をタテヨコに織った紋章)のことらしい。

さて、コペンハーゲン港停泊中の帆船ナジェジダには、北ドイツ・ゲッティンゲン出身の医学博士にして博物学者のハインリッヒ・ラングスドルフほか宮廷学者・芸術家若干名が乗り込んでいる。ロシア科学アカデミーに在籍するラングスドルフは、帝国植民地の地質や植物に精通するばかりか、ドイツやオランダ医学にも通じる(医学博士号は出身地のゲッティンゲン大学で取得)。博士に「デンマーク駐在を早めに切り上げて迎えの船に乗り、そのまま東洋(長崎)まで同行するように」と命じたのは、使節団長レザノの強い要望からであった。

 <つづく> ©松原まこと

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